立春【りっしゅん】

立春とは、暦の上で春が始まる日であり、「二十四節気(にじゅうしせっき)」の最初の季節です。「二十四節気」とは、紀元前の中国で生まれた太陽の動きをもとにした暦です。1年を4つの季節に分け、さらにそれぞれの季節を6つに分割しています。

二十四節気暦

春は「立春」「雨水」「啓蟄」「春分」「晴明」「穀雨」から成り、立春は春の始まりであるとともに、旧暦において1年の始まりの日でもありました。昔の日本では、立春を始まりとして八十八夜や入梅、彼岸などの雑節を決め、季節とともに暮らしていたため、立春はとても重要な日だったと言えます。

また、厄除けのために家や部屋の入り口に「立春大吉」と書いた紙を貼ると良い、という風習もあります。「立春大吉」の文字は左右対称で、縦書きにすると表からも裏からも「立春大吉」と読めます。そのため、家に入ってきた鬼が振り返ってこの文字を見た時に「まだ家の外だったのか」と勘違いして外に出て行ってしまう、という言い伝えから生まれました。

稲荷大神【いなりだいじん】

全国の稲荷神社に祀られる、五穀豊穣、商売繁盛、家内安全など、多義に渡るご利益があるといわれる神様。

単一の神ではなく、五柱の神「宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)」「佐田彦大神(さたひこのおおかみ)」「大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)」「田中大神(たなかのおおかみ)」「四大神(しのおおかみ)」の総称です。ただし、実際には宇迦之御魂大神、佐田彦大神、大宮能売大神の三柱だけを祀る神社が多くを占めます。

上巳節/上巳の払い【じょうしせつ/じょうしのはらい】

中国の「上巳節(じょうしせつ)」は、古い歴史を持つ伝統行事で、その起源は、紀元前の周王朝時代(紀元前1046年~紀元前256年)にまでさかのぼると考えられています。

もともと上巳節は、旧暦3月の初めの巳の日に、川や水辺で体や衣服を洗い、心身の汚れを清める邪気払いの儀式でした。この習慣が生まれた背景には、春になり農作業が始まる時期に身を清め、無病息災や災よけを願う意味合いがありました。

その後、上巳節は厄払いだけでなく、春の訪れを祝う社交イベントに発展。川の流れに盃(さかずき)を浮かべ、自分の前を通り過ぎるまでに詩を読む「曲水の宴」という風流な遊びも行われていたそうです。

西暦300年ごろになると開催日が「3月の最初の巳の日」から、旧暦の3月3日に固定されました。

人形流し【ひとがたながし】

日本に古くから伝わる伝統的な厄払いの儀式。

紙、木、金属などで人の形を模した「人形(ひとがた)」や「形代(かたしろ)」に、自分の名前や年齢を書き、身体の具合が悪いところや気になる部分を撫でることで、自分自身の心身の穢(けが)れや災いを人形に託します。さらに、人形にそっと息を吹きかけることで、災厄を預けるという意味も込めます。こうして穢れを移した人形を、川や海に流したり、神社の決められた場所に納めたりすることで、厄除けや無病息災を願う儀式です。

この人形流しの歴史は大変古く、平安時代にはすでに行われていたとされています。3月3日上巳の節供(ひな祭り)の「流し雛」のルーツになったといわれ、現代では、6月30日に行われる「夏越の大祓」にも受け継がれています。

二十四節気【にじゅうしせっき】

二十四節気とは、太陽の動きを基準に一年を二十四等分し、それぞれの期間に季節の移り変わりを示す名前をつけたもの。古代中国で、まだ天気予報などもなかった頃、季節の変化をより正確に細かく把握し、農作業の目安になるようにと考案された暦です。

一節気は約15日間ですが、年によって1日前後の差があります。小寒、立春、穀雨、芒種など美しい表現も興味深く、それぞれに込められた意味を知り、季節に寄り添った暮らしを楽しみましょう。

彼岸【ひがん】

春のお彼岸は3月の「春分の日」を中日(ちゅうにち)とする前後3日間、秋のお彼岸は9月の「秋分の日」を中日とする前後3日間、それぞれ計7日間を指します。

「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉があるように、冬の寒さや夏の暑さに別れを告げる節目でもあります。お彼岸の語源は、サンスクリット語の「paramita(パーラミタ)」で、「河の向こう岸」という仏教用語。

仏教では、迷いや煩悩のない悟りの世界(極楽浄土)を「彼岸(ひがん)」といい、その反対側の私たちがいる世界を「此岸(しがん)」といいます。彼岸は西に、此岸は東にあるとされ、太陽が真東から昇り真西に沈む春分と秋分は、彼岸と此岸が最も近づく日。こちらの岸にいる私たちが、向こう岸にいる先祖をしのぶのに最適な日ということで、ご先祖様のお墓参りや法要を行う習慣が広がりました。

陰陽思想【いんようしそう】

古代中国に起源を持つ哲学・世界観で、宇宙や自然、万物のあらゆる事象を「陰(いん)」と「陽(よう)」という二つの相反する側面に分類し、そのバランスや相互関係によって世界が成り立っていると考える思想。

陰陽思想では、奇数は「陽」、偶数は「陰」とされ、陽の数が重なる日は「陽が強すぎて不吉」とみなし、厄除けや禊の行事が行われていました。しかし、時代とともに「縁起の良い日」として祝い事などを行う日に変化しました。

大祓【おおはらえ】

清らかな気持ちで日々を過ごせるように、自らの心身についた穢れや災いの元となる罪や過ちを祓い清める儀式です。

古事記や日本書紀に記されている伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が行った禊(みそぎ)に由来し、古くは宮中で行われてきました。そして中世以降、各神社で年中行事の1つとして普及。現在は多くの神社で毎年恒例の行事となっています。

大祓は年に2度行われ、6月の大祓は「夏越(なごし)の祓」、12月の大祓は「年越の祓」とも呼ばれます。

夏越の祓では、半年間の穢れや厄を祓い、年越の祓では、新たな年を迎えるために心身を清めます。忙しい現代を生きる私たちにとっても、自分自身を見つめ直し、清らかな心と体へリフレッシュする良い機会となります。

水無月【みなづき】

京都で古くから親しまれてきた伝統的な郷土菓子。白いういろうの生地に小豆をあしらい、三角形に切り分けた形で提供されます。

平安時代、夏の暑い日に、宮中の人々は氷室に蓄えていた氷を口にして暑気払いをしていましたが、当時高級品だった氷を庶民が口にする機会はほとんどありませんでした。そこで、庶民の間では、代わりに氷の形を模した「水無月」を食べるようになったといわれています。

京都では毎年6月30日に、半年間の罪や穢れを祓い清める神事「夏越の祓(なごしのはらえ)」が各神社で行われます。この神事の際に罪を祓い、無病息災を願って食べられるのが「水無月」です。

三角の形は氷を象徴し、小豆の赤色には邪気を祓う意味が込められています。

乞巧奠【きっこうてん】

技が巧みになるように祈る」という意味を持つ、古代中国の七夕伝説に由来する行事。その最も古い形態は漢の時代(紀元前206年~紀元後220年)とされており、宮廷に仕える女官が、七月七日に七つの穴が開いた針に糸を通す「穿七孔針(せんしちこうしん)」を行なっていたという記録が残されています。

唐の時代(618年~907年)には、宮廷内外で盛大な行事として発展。七夕の夜に、機織りの名手である織姫にあやかって、機織りや裁縫の道具を供え、星に向かって手芸や家事の上達、女性の良縁を祈る儀式を行なっていました。

時代とともに「技芸」の概念も広がり、具体的な手先の器用さから、学問や文芸の上達を願う行事へ。さらに現代の中国では、織姫と彦星の恋愛物語が全面に押し出され、商業主義とも結びつきながら、恋人同士がプレゼントを交換したり、ロマンティックなデートを楽しむ「中国のバレンタインデー」に変容しています。

日本に「乞巧奠」が伝来したのは奈良時代ですが、独自の発展を遂げたのは平安時代の宮中でのこと。宮廷の庭に祭壇が設けられ、季節の産物や五色の糸、琴や琵琶が供えられ、香を焚いて楽器を奏で、詩歌を楽しむなど盛大に行われました。

棚機【たなばた】

若い女性が、清らかな水辺にある機屋にこもり、着物を織って神様にお供えし、人々の穢れをはらったり、作物の豊作を祈る儀式のこと。この時使われる織機のことも「棚機」と呼びます。

棚機の儀式は、のちに中国から伝わった乞巧奠と結びつき、現在の七夕行事の起源の一つに。「七夕」を「たなばた」と読むのは、この棚機に由来しているとされています。

陰陽五行説【いんようごぎょうせつ】

「陰陽説」と「五行説」が合わさった中国の古代思想で、日本の文化や暮らしにも影響を与えてきました。

まず「陰陽説」とは、全てのものを「陰」と「陽」のどちらかに当てはめ、自然界のあらゆる事象は、陰と陽の相反する要素の調和から成り立っている、という考え方。積極的、動的なものを「陽」とし、消極的、静的なものを「陰」とします。例えば太陽は陽で月は陰、奇数は陽で偶数は陰、男は陽で女は陰。どちらが良くてどちらが悪いということではなく、その相互バランスが大切と考えられています。

また「五行説」は、自然界の全てのものは、木(もく)・火(か)・土(ど)・金(こん)・水(すい)の5つで成り立っている、と考えるものです。そして、この5つの要素が互いに影響を与え合いながら変化し、循環しているという思想のことをいいます。

この陰陽五行説は、暦や医療、食事、建築、風習など、さまざまな分野に取り入れられ、日本の伝統文化や生活の知恵にも息づいています。

盂蘭盆経【うらぼんきょう】

仏教の経典の一つで、日本のお盆(盂蘭盆会)の由来となったとされるお経です 。

物語は、釈迦の十大弟子の一人である目連尊者(もくれんそんじゃ)が、持ち前の神通力で、亡き母が餓鬼道に堕ちて痩せ細り、苦しむ姿を見る場面から始まります 。

目連が母に食べ物や水を与えようとしても、それらは全て炎となってしまい、母の口には入りません 。悲しんだ目連が釈迦に救済を求めると、「多くの僧侶たちが修行期間を終えた7月15日に、彼らに食べ物などを供養しなさい。その功徳によって母は救われるだろう」と教えられます 。目連がその教えの通りに実践すると、母は餓鬼道の苦しみから救われたとされています 。

この経典では、僧侶への供養(布施)の功徳が現世の父母だけでなく七世代前の先祖まで救うと説いており、日本のお盆において先祖の霊を迎え供養する根拠となりました 。また、『盂蘭盆経』の物語は日本の説話や文学、芸能、さらに東アジアの仏教文化にも大きな影響を与えました。

呉茱萸の実【ごしゅゆのみ】

中国原産のミカン科の植物で、秋になると丸く房のようになった赤い実をつけます。強い香りと苦味・辛味があり、漢方薬としても用いられ、健胃や鎮痛、冷えの改善などに効果があるといわれています。その強い香りから、中国では後漢の時代から乾燥した実を袋に入れて身に付け、魔除けや災厄除けをする風習がありました。

日本に伝わった時代には「呉茱萸の実」は自生していなかったため、見た目の近い「茱萸(ぐみ)」の読みが当てられ、代用されていました。「茱萸」は、サクランボを楕円形に伸ばしたような赤い実を付けるグミ科グミ属の植物で「呉茱萸」とは別物。現在でも日本では「呉茱萸」の生産量はごくわずかで、大部分は中国産が占めています。

秋の七草【あきのななくさ】

お粥にして食べる春の七草とは違い、観賞用として楽しむ秋の草花のこと。十五夜や十三夜のお月見に飾る習わしがあります。

秋の七草は、ススキ(尾花)・クズ(葛花)・ナデシコ(瞿麦)・オミナエシ(姫部志)・フジバカマ(藤袴)・キキョウ(桔梗)・ハギ(萩)です。万葉集に詠まれている「萩の花 尾花葛花 瞿麦の花 姫部志また藤袴 朝顔 の花」という歌で憶えた方も多いのではないでしょうか。

ちなみに”朝顔の花”は、”桔梗の花”をさすという説が有力です。現代では7種類全て揃えるのは難しいため、手に入りやすいススキ、ナデシコ、キキョウと合わせ、シーズンであるピンポンマム(菊)などを満月に見立てて飾るのもおすすめです。

片月見(片見月)【かたつきみ(かたみつき)】

十五夜と十三夜、どちらか一方の月しか見ないことを「片月見」または「片見月」と呼び、縁起が悪いという言い伝えがあります。

十五夜と十三夜を合わせて「二夜の月」として、どちらも同じようにお月見を楽しもう、というのが由来です。さらに、二夜とも同じ場所でお月見をすると良いとされています。

七福神【しちふくじん】

古来より日本で親しまれている「福」を授けてくれる7人の神様のことです。

七福神信仰は、室町時代末期ごろから始まり、農民や漁民など庶民を中心に親しまれてきました。七福神を参拝すると、7つの災難が消え、7つの福が生まれるといわれています。

七福神は、日本の神様である恵比寿天(えびすてん)、インドの神様である大黒天(だいこくてん)、毘沙門天(びしゃもんてん)、弁財天(べんざいてん)、中国の神様である福禄寿(ふくろくじゅ)、寿老人(じゅろうじん)、布袋樽(ほていそん)の7人。それぞれご利益が異なります。

恵比寿天(えびすてん) 唯一の日本の神様で、左手に鯛を抱え、右手に釣竿を持つ。豊漁、豊穣、航海安全、商売繁盛の神
大黒天(だいこくてん) 打出小槌を持って米俵の上に座る、台所を守る神。財宝、福徳開運の神でもある
毘沙門天(びしゃもんてん) 甲冑を身に付け槍と宝塔を持ち、武将のような姿。勝負事や金運、開運にご利益あり
弁財天(べんざいてん) 弁天さんの別名を持つ、女神。音楽・芸能・学問成就、財運の神
布袋尊(ほていそん) 優しい笑みを讃え、宝物が入った大きな袋を持っている。笑門来福、家庭円満のご利益
福禄寿(ふくろくじゅ) 幸福の「福」、身分を指す「禄」、寿命の「寿」で成り、子孫繁栄、財運招福、健康長寿の神
寿老人(じゅろうじん) 巻物を付けた杖、災難を払う団扇や長寿を象徴する桃を持つ。長寿、吉運の神
七福神恵方入船
歌川国貞(3世)作
©東京都立中央図書館所蔵

京都 護王神社【きょうと ごおうじんじゃ】

京都御所の西側、烏丸通沿いにある神社。

奈良~平安時代初期に活躍した律令官人で、平安京の建都にも貢献した和気清麻呂公(わけのきよまろこう)と、戦乱で生じた多くの孤児を養子として育てたことで知られる、姉の和気広虫姫(わきのひろむしひめ)を祀っています。

弟の清麻呂公は、奈良時代末期、皇位を奪おうとした僧侶・道鏡の野望を阻止したことで知られます。しかしその代償は大きく、道鏡の怒りを買って足の腱を切られ、遠方へ流される苦難に見舞われました。その流刑先へ向かう道中、不思議なことに300頭もの猪が現れて清麻呂公を助け、萎えていた足が治癒したという逸話が残っています。

この故事から、境内には狛犬ならぬ「狛いのしし」が並び、清麻呂公は「足腰の守護神」として深く崇敬されています。特に亥年生まれの方々には格別なご利益があるとされ、健康や難関突破を願う多くの参拝者で賑わいます。

京都 護王神社
護王神社「狛いのしし」

一陽来復【いちようらいふく】

冬至の別名として使われる言葉。

冬至を境に少しずつ日が長くなることから「厳しい寒さの中にも次第に春が近づき、明るく幸運な未来に転じる」という意味を示します。

これは、全てのものは「陰」と「陽」という相反する要素の調和によって成り立つとする、中国古代の「陰陽思想」に由来します。陰陽思想では、冬至を陰(寒さや暗さ)の極みとし、そこから陽(暖かさや光)が再生すると考えられていたことから、冬至を「一陽来復」と表すようになりました。

五節供

五節供とは、日本の伝統的な年中行事で、季節の節目を祝う以下5つの重要な日のことです。

1月7日 人日(じんじつ)の節供(七草の節供)
3月3日 上巳(じょうし[み])の節供(桃の節供、ひな祭り)
5月5日 端午(たんご)の節供(菖蒲の節供、こどもの日)
7月7日 七夕(しちせき)の節供(笹竹の節供、たなばた)
9月9日 重陽(ちょうよう)の節供(菊の節供)

元々は古代中国で月と日が奇数で重なる日を、縁起が良すぎるがゆえに「厄日」と考え、その日に厄払いの行事を行なっていたことに由来します。それが奈良・平安時代に日本へ伝わり、日本の風習と結びついて宮中行事となり、貴族の間に広まりました。

江戸時代には幕府がこれらを祝日に制定したため、全国的に親しまれるように。明治の改暦の際に公の祝日からは外されましたが、行事は今も続いています。

なお「節句」と書くことが多いですが、本来は「節供」。旬の恵みをごちそうにして神様にお供えし、皆で分かち合うことで、家族の健康や子供の成長を願うという意味が込められています。また、節供のしつらいにはその季節の植物が使われ、1月7日は七草、3月3日は桃、5月5日は菖蒲、7月7日は竹(笹)、9月9日は菊を用います。

正月事始め【しょうがつことはじめ】

新しい年を連れてくる歳神様を、気持ちよく迎えるための準備を始める日。

大掃除や正月飾りの用意を始め、おせち料理の食材やお餅を注文します。旧暦12月13日が、古代中国の暦の中で「鬼宿日(きしゅくび)」という婚礼以外のすべてのことを始めるのに良い日だったことから、この日が選ばれました。

江戸時代には城や寺院で煤払いが行われ、明治以降も新暦12月13日に受け継がれています。

鏡餅【かがみもち】

「鏡餅」という名前は、神様が宿るとされていた昔の丸い鏡に形が似ていることに由来します。

大小二段に重ねた餅は太陽と月、陰と陽の調和を表し「福徳が重なる」「円満に年を重ねる」という願いが込められ、上に載せる「橙(だいだい)」は、「家系が代々栄えますように」という意味があります。

お正月に供えた鏡餅は「鏡開き」をしてお雑煮やぜんざいにして食べます。その際、歳神様の代理人である家長が家族に分け与えた餅が「歳玉(としだま)」と呼ばれ、お年玉の語源になったといわれています。

松の内【まつのうち】

松の内の「松」は、お正月に飾る門松のことで、この門松に「歳神様」が宿る期間を松の内と呼びます。歳神様は新年に山から降りてくる神様。1月1日に各家にやって来て門松に宿り、その年の豊作や幸福を授けて、1月7日に再び山へ帰っていくといわれています。

松の内の期間は、江戸時代初期までは全国一律で「1月1日~1月15日」と定められていましたが、現在は地域によって異なり、1月1日から1月7日までとする地域が多くを占めています。

松の内の最終日には、門松としめ縄を片付け、春の七草を使った七草粥を食べます。また、新年の挨拶や年賀状も、松の内以降は「寒中見舞い」とするのが一般的です。

歳神様【としがみさま】

現代では「お正月」は、新年を祝う行事となっていますが、本来は「歳神様」を家にお迎えする行事です。

「歳神様」とは、新年に山から降りてくる神様で「歳徳神(としとくじん)」とも呼ばれ、五穀豊穣、無病息災、家内安全など、その年の福と徳を司る神様。

歳神様をお迎えするために、お正月前には煤払い(大掃除)をし、玄関に門松としめ縄、室内に鏡餅を飾るのが伝統的な風習です。門松は歳神様の依り代、しめ縄はその家が歳神様が降りるのにふさわしい神聖な場所として結界を張る意味合い、鏡餅は歳神様へのお供え物とされています。

旧暦【きゅうれき】

日本でかつて使用されていた「太陰太陽暦(月の満ち欠けを基準としながら、季節を表すために太陽の動きも加味して作られた暦)」のこと。

7世紀頃中国から伝わり、日本の気候風土に合わせて修正が重ねられたため、特に、天保時代に完成した「天保暦」のことを指します。現在私たちが使っている「太陽暦(太陽の動きを元に作られた暦)」が採用された明治6年(1873年)の直前まで使われていました。

旧暦では、新月から次の新月までの周期(約29.5日)を1か月として定め、29~30日で構成されていました。このため、約2~3年に1回、1年が13か月となる「閏月(うるうづき)」を挿入し、季節のずれを調整していたそうです。旧正月やお盆、七夕や中秋の名月など、日本の伝統行事や文化の中には、旧暦に由来するものがいくつも残っています。

二十日正月【はつかしょうがつ】

二十日正月(はつかしょうがつ)とは1月20日を指し、1月15日の小正月と同じく、正月の祝い納めの日とされています。

お正月の飾りなどを全て片付け終える日でもあり、元々は鏡開きもこの日に行っていました。しかし、徳川幕府3代将軍・家光が4月20日に亡くなったことを受け、江戸時代以降は月命日である20日を避けるようになり、1月11日に行うのが一般的になりました。

また、昔は正月に忙しく働いていた女性や奉公人がひと段落付く時期で、小正月に身内で小さく祝っていたことから「女正月」とも呼ばれます。